龍女の宴
許漢陽という人が洪州(注:江西省)の近くを舟で旅していた時のことである。
その日はいつになく風の強い一日であった。日暮れ近くになると、波はおさまるどころかますます大きくなった。仕方がないので小さな支流へ舟を入れ、どこか入江に停泊することにした。
三、四里も行った頃、広々とした湖に出た。水深が非常に浅く、浅瀬に注意を払いながら、北に一里ほど舟を進ませた。見れば、岸辺には竹や木が生い茂っている。錨(いかり)を下ろすところを探して岸に近付くと、竹林の向こうに立派な邸が見えた。どこぞの王侯の別荘のようであった。その時である。
「お客様よ、お客様がいらしたわ」
二人の少女が揃いの青い着物の裾をひるがえしながら、こちらに走ってきた。どちらも髪を稚児輪に結い上げ、玉のような肌をした美少女である。漢陽は不思議に思いながら、少女達に声をかけた。試しに冗談を口にすると、少女達は笑み崩れてそのまま邸へと駆け戻って行った。
不思議な邸に興味をひかれた漢陽は身なりを整え、訪ねてみることにした。二、三歩踏み出すと、もう邸の前に着いていた。心得たように腰元が迎えに出ていた。腰元は漢陽を客間に通すと、席を勧めて言った。
「お嬢様はお召し替えの最中でございます」
しばらく待ってから、腰元は漢陽に付いてくるよう命じた。腰元の後に付いて客間の裏手を抜け、精緻な装飾の施された中門を潜ると目の前に広々とした池が広がった。池には蓮が咲き乱れ、その芳香にむせかえりそうであった。水面に架け渡された回廊が唯一池を渡る手段であった。池の北面には高閣が聳え、層楼がそそり立っていた。偏額には金字で『夜明宮』と記されている。高閣の周囲には珍奇な花や木が生い茂っていた。
腰元に案内されて漢陽が高閣の中に入っていくと、控えていた六、七人の腰元が出迎えた。二階に上がると、そこには目の覚めるような美女が六、七人いた。美女達はゆったりとした身のこなしで漢陽を取り囲み、どこから来たのかと問うた。漢陽が波を避けるためにたまたま立ち寄ったと告げると、にっこりと笑って席を勧めてくれた。そこへ腰元達が料理を運んできたのだが、人間界ではお目にかかれない珍しいものばかりであった。食事を終えた頃、酒が運ばれて来た。
高閣の麓に高さ数丈(注:一丈は3.1メートル)の珍しい木が植えられていたが、その枝がちょうど二階の欄干に差しかかっていた。枝ぶりはあおぎりに似ており、葉は芭蕉のようであった。盃ほどもある紅の蕾は大きく膨らみ、今にも咲きほころびそうになっていた。
各々の杯が酒で満たされ、美女の一人が盃を手にすると、腰元が鸚鵡(おうむ)によく似た鳥を一羽連れて来て欄干に止まらせた。鸚鵡が一声高く鳴いた。その声に合わせて、樹上の蕾が一斉に花開いた。心をとろかせるような芳香が辺りに漂った。
驚いたことにそれぞれの花の中には背丈一尺余りの(注:一尺は約31センチ)の美人が坐っていた。すこぶる艶麗で、後ろに長く引いた裳裾(もすそ)はたなびくよう。手に手に楽器を持っていて、一斉にこちらに向かってお辞儀をした。美女の一人が盃を挙げると、小美人達は演奏を始めた。その音色は天上の楽の音にも等しかった。
気がつくと月が高く昇っていた。漢陽は美女達の語ることにじっと耳を傾けていたが、その内容はいずれも俗世からかけ離れたものであった。漢陽が最近の話題を振り向けると、美女は笑って答えなかった。
二更(注:夜10時)頃まで酒を酌み交わした。宴が終わると、樹上の花はヒラヒラと池へ散り始めた。小美人も花びらに乗って池へ落ちていったが、その姿は水に落ちる前に闇に吸い込まれて消えた。
美女の一人が漢陽に一巻の巻物を渡した。受け取ってみると『江海賦』であった。美女達は漢陽に朗読してくれるよう頼んだ。漢陽が朗読してみせると、くだんの美女がその後について涼やかな声で読み上げた。読み終わると腰元に巻物を収めさせた。
美女の一人が朋輩と漢陽に言った。
「私、文章を思いつきました。ここで詠んでもよろしいかしら?」
一同が是非聞きたいと言うと、美女は袖を振るって立ち上がった。海門連洞庭 海門は洞庭に連なるも
毎去三千里 隔たること三千里
十載一帰来 十年に一度帰るも
辛苦瀟湘水 瀟湘の水に苦しむ美女達は腰元に巻物と筆硯を持ってこさせると、漢陽に今の詩を書き取ってくれと頼んだ。漢陽が巻物を繙くと金粉がまぶしてあり、銀色の文字で書かれた題箋(だいせん)、一抱えもある軸、という非常に立派なものであった。既に半分ほど詩が書きつけてある。筆はと見れば白玉の軸、硯は碧玉でできており、玻瑠の箱に収められていた。硯に注がれた水は清冽(せいれつ)で噂に聞く天の川の水のようであった。
詩を書き取り終えると、漢陽に署名するよう命じた。ふと前に記された詩を見ると、いずれも署名は名前だけで姓は見られなかった。漢陽もそれに倣って署名した。美女が巻物をしまおうとするので、漢陽は筆を手にしたまま言った。
「私も詩を思いつきました。先程の詩に唱和するものです。この後に続けて書いても構いませんか?」
すると美女は笑って言った。
「それはできませんわ。これは両親や兄弟に見せることになっておりますの。他の方のを交えるわけには参りませんのよ」
「なら、どうして私に署名させるのです?」
「あなたは知らなくても良いことです」
四更(注:深夜2時)になり、腰元達が慌ただしく片付けを始めた。腰元の一人が、
「若様、そろそろお戻り下さいませ」
と漢陽を促した。漢陽が改めて礼を述べると、美女達は、
「今宵は本当に楽しゅうございました。ただ、貴方様のおもてなしが行き届かなかったのが残念ですわ」
と言って別れを惜しんだ。漢陽が舟に戻った途端、にわかに大風が吹き荒れ、黒雲が沸き起こって夜空を覆い尽くした。数歩先も見えないくらいであった。夜明けになって昨夜の邸の方を眺めると、そこには樹木が鬱蒼と茂っているだけであった。不思議に思いながら、纜(ともづな)を解いて舟を出した。
河の本流に戻ると、岸辺の人家に人が十数人集まっているのが見えた。何か事故でも起きたようである。舟を寄せてみると、
「土左衛門が四人上がったんだす。夕べの二更にやっと引き揚げたんだすがね、三人はもう駄目でした。一人は死んでるかと思うたんだすが、何とか息がありましてな、そこで巫女さんを呼んでまじないをしてもろとるんだすわ。おや、何やウワウワ言い出した」
懸命な介抱によってようやく喋れるようになった生き残りはこんなことを話した。
「夕べ、龍王のお姫さんとその従姉妹が洞庭湖に里帰りして来て、ここで宴を開いたんだすわ。そこでワシら四人を捕まえて酒を作るという。今日のお客は少ないから酒はあまりいらない、いうことでワシだけ帰されたんだす」
その話を聞いた漢陽は何やら妙な気持ちになった。そこで、この生き残りに訊ねた。
「客って誰だったんだい?」
「貧乏書生だと言うとりましたが、名前は知りません」
そう言ってから、生き残りの男はまた続けた。
「ああ、そう言えばあそこの女中がこんなこと言うとりましたわ。お嬢様方は人の文字が大好きやけど、なかなか手に入れられん。で、貧乏書生にでも書いてもらおうと思っているけど、なかなか機会がないんやそうだす」
「その貧乏書生ってどこの人?」
「さあ、もう舟で行ってしまった言うてましたが…」
漢陽の心の中のモヤモヤとしたわだかまりは、ますます大きくなったが、この水難事故と自分が昨夜経験したことが関係あるという確証は得られなかった。
漢陽はむっつりと黙り込んで舟に戻った。舟を出して間もなく、胸から腹にかけて何やらこみ上げるものがあった。我慢しきれなくなって吐いた。パッと床に何升もの鮮血が撒き散らかされた。それは漢陽の血ではなかった。ようやく昨夜飲んだ酒の正体がわかった。三日ほど寝込んで、ようやく気分がスッキリしたのであった。
(唐『博異志』)