おしろい
ある所に金持ちの御曹司がいた。一人息子ということで両親は非常に可愛がっていた。この若者がある日、市場を通りかかった。市場は野菜を売る人、肉を売る人、着物を売る人、道具類を売る人、そして買物に来た人でごった返していた。若者はめったに市場に来ることがなかったので、物珍しげにあちこち見回した。その喧騒の中で一人の娘がおしろいを売っていた。
身なりは質素であるが、素晴らしい美人である。若者は一目見るなり、娘のことがたまらなく好きになってしまった。しかし、いきなり声を掛けるのは憚られた。そこで、娘を間近で見るためにおしろいを買った。以来、若者は来る日も来る日も市場へ出向き、娘からおしろいを買った。買って帰ったおしろいは箪笥の中に仕舞っておいた。そんなことがしばらく続いた。
一方、娘の方では訝しく思い始めていた。なぜなら男が毎日おしろいを買いに来るのである。しかも、一言も口を利かず、黙って代金を払っておしろいを受け取ると、そそくさと立ち去るのである。たまりかねた娘はついにある日尋ねた。
「毎日、おしろいを買いにいらっしゃるけれど、何に使ってらっしゃるの?」
若者は真っ赤になって口ごもっていた。
「え…と、あの…」
娘の美しい目にじっと見つめられて若者は舞い上がってしまって白状した。
「実はあなたを見かけて以来、忘れることができないのです。だからと言って声を掛けるわけにもいかないし、それでおしろいを買うのにかこつけて毎日あなたに会いに来ていたんです」
突然の愛の告白に娘はびっくりした。実は娘の方も毎日おしろいを買いに来る若者のことを好ましく思うようになっていたのである。そこで、娘は明日の晩、若者のもとを訪れることを約束して別れた。
約束の晩、若者は早々に自室に引き上げて、娘の来るのを待った。果たして娘が忍んで来た。娘を迎え入れた若者はその手を握って言った。
「ああ、やっと願いがかなった」
そして、そのまま卒倒してしまった。娘が助け起こそうとその体に手を触れると、息をしていない。喜びの余りこと切れてしまったのである。怖くなった娘はそこから逃げ出して家に戻ってしまった。
翌朝、なかなか起きて来ない息子を両親が起こしに行くと、既に冷たくなっていた。両親は一人息子の突然の死を嘆いた。遺体を柩に収めてから、気に入りの道具も入れてやろうと箪笥の中を整理していると、大量のおしろいが出てきた。どれも手付かずで、かれこれ百個余りもあった。母は、
「あの子を殺したのはこのおしろいを売った者だ」
と言い、人を市場に遣わして片端からおしろい売りを調べさせた。包みの筆跡からほどなく売った娘を突き止めた。下僕らに娘を引き立てて来させると詰って言った。
「なんで、うちの息子を殺したの?」
若者の両親の悲嘆ぶりを見て娘は包み隠さず経緯を説明した。両親は娘の言葉を信じず、役所に訴え出た。捕えられた娘は、
「今さら、死ぬことを恐れましょうか?最後に、一目あの方にお会わせ下さいませ。あの方のお弔いをさせて下さい」
と涙ながらに訴えた。県令は娘の申し出を許可した。
娘は若者の家に行くと、安置してある柩の上に身を投げて泣いた。「ああ、何て不幸なんでしょう。あなたに先に死なれてしまうなんて。もう死んでもいいわ、何の未練もないわ」
娘の涙が柩に横たわる若者に降りそそいだ。その時、深いため息と共に遺体の胸が大きく上下し出した。若者が甦ったのである。
若者が事情を説明して、娘の冤罪は晴れた。両親は喜んで娘を嫁に迎え、子孫は大いに繁栄したのであった。(六朝『幽明録』)