三娘子(二)
木人は木牛に鋤を付けると、土間の一角を行ったり来たりしながら耕し始めた。耕し終わると、三娘子は例の小箱から袋を取り出して木人に手渡した。木人は袋の中身を耕した畑に播いた。袋の中身は蕎麦(そば)の種であった。蕎麦の種は地面に落ちるのとほとんど同時に芽を出し、見る見るうちに伸びて葉をつけ、花を咲かせた。普通の蕎麦の何百倍もの速さで成長したのである。やがて実を結んだが、東の空の白むまでまだ間があった。
木人は小さな鎌で蕎麦を刈り取ると、小さな石臼で挽いて七、八升(注:一升は約0.6リットル)の蕎麦粉にした。その作業が済むと、木人も木牛も土間に倒れてそのまま動かなくなった。三娘子は動かなくなった木人と木牛とその他の農具を元の箱に仕舞い込んだ。それから自分で蕎麦粉をこね、焼餅を何枚か作って籠に盛った。
一部始終を壁の割れ目から見ていた季和は、三娘子の術に不吉なものを感じ取った。
(あの焼餅を一体、どうするんだろう…)
もしも食べさせられたら、と想像した途端、鳩尾(みぞおち)の辺りが痛くなった。彼は一刻も早くここから遠ざかりたかった。その時、一番鶏が鳴いた。
泊まり客達が起き出してきた。三娘子は満面に笑顔を浮かべて朝食の用意をした。食卓の上には焼餅を盛った籠が置いてあった。季和の鳩尾がキリキリと痛んだ。彼は急ぎの用のある振りをして、一足先に外に出た。
「おお、おお、女将の手の味がする」
誰かが焼餅を頬張りながら、下手な冗談を飛ばすのが聞こえた。季和はそのまま旅籠の裏手に回った。厩にはずらりと驢馬が繋いであった。驢馬達は季和の姿を見ても騒ぎはしなかった。ただ、何か訴えるような哀しげな目つきでジッとこちらを見ていた。季和は驢馬の視線を背中に感じながら、物陰に隠れて中の様子を伺った。
泊まり客達は皆、食卓を囲んで焼餅をうまそうに頬張っていた。その傍らで三娘子は美しい顔に笑顔を浮かべて見守っていた。それにしても朝から愛想の良いことである。ここまで愛想良く客をもてなす女将がどこにいるだろう。愛想…?いや、そんなものではない。形の良い口の両端は釣り上げられ、細めた目には嗜虐(しぎゃく)的な光が宿っている。季和の背筋を冷たいものが流れた。
それは突然起こった。まだ焼餅を食べおわらないうちに、客達は皆一斉に地面に倒れたのである。いや、正しくは四つん這いになったのであった。これには客自身も驚いたようである。誰かが救いを求めようと口を開いた。「ブオブオ〜〜!」
驚いたことに、口を衝いて出たのは驢馬の嘶(いなな)きであった。客達の耳がピンと立ち、首が太く長くなり、指は蹄に変化した。おまけに尻には今までなかった飾りが一房垂れ下がっていた。
三娘子は焼餅を食べた客が全員驢馬に変わってしまったのを見ると、高らかに笑った。
「ああ、おかしい。人が驢馬に変わる姿ってのは、いつ見てもおかしいもんだ。おまえ達にはその間抜け面が一番お似合いさ。これからしっかり働いてもらうからね。怠ける奴は肉餅にしてやるから覚悟おし。人間驢馬の肉餅でも売れるかもしれないからねえ」
そして、壁に掛けた竹の鞭を手に取ると、驢馬達をピシピシ打ち据えながら、厩へと追い立てた。驢馬を繋いでしまうと、泊まり客達の手荷物を自分の部屋に仕舞い込んだ。
季和は三娘子に見つからないうちに、その場を離れた。そのまま洛陽へ向ったのだが、彼は三娘子の旅籠で見たことを自分一人の胸に納めて誰にも話さなかった。季和には心に期するところがあった。