笑い上戸(一)
然、頭上で笑い声がした。振り仰いで見ると嬰寧が樹に上ってこちらを見下ろしている。嬰寧はそっくり返って笑い出した。不安定で今にも落ちそうである。見ていられなくて若者は呼びかけた。
突
若者の名は王子服。早くに父を亡くし、母親の手一つで育てられた。非常に聡明で十四歳で科挙の受験資格を取得した。降るような縁談が舞い込み、その中から蕭家と縁組みをしたのだが、婚礼の前に花嫁が病死してしまったのでいまだに独身でいた。
正月十五日、元宵(げんしょう、注:日本の小正月にあたる)節のことである。子服は母方の従兄の呉と連れ立って郊外へ散策に出た。村外れまで来た時、迎えに来た下男と共に呉が帰ってしまったので、子服は一人でそぞろ歩いた。ついこの間まで冬景色だった野山は淡い緑に変わり、早春の花がほころび始め、若い子服の心を浮き立たせた。娘たちが野のあちこちに集まり、笑い興じているのも子服の心をときめかせた。
ふと気が付くと一人の娘が小間使いを連れて梅の花を一枝いじりながら歩いている。世にも希なる美形で一目で子服は魅了されてしまった。花のような笑顔に子服は思わずじっと目を注いだ。娘はちらりと子服の方に視線を投げて数歩行き過ぎると、
「人のことをじろじろ見るなんて変な人」
そう聞こえよがしに言って花を地面に捨てて、笑いさざめきながら行ってしまった。花を拾い上げた子服はまるで魂が娘に着いて行ってしまったかのように、いつまでもその後ろ姿を見送っていた。
帰宅してからの子服はその花を枕の下に忍ばせて、どっと寝込んでしまった。まるで魂を抜かれてしまったようである。それも当然。子服は魂を娘に持って行かれてしまったのである。健康でいられるはずもない。起きるのはその花を取り出して残り香をかぐ時だけ。家人とも口を利かなければ、食事もとらない。子服を溺愛している母親の心配は大変なもので、医者だ、お祓(はら)いだ、とあれこれ手を尽くしたが、効き目はなくますます痩せ衰えていくばかりであった。母親がわけをきいても、返事をしない。折よく見舞いに来た呉に内緒でわけをきいてくれるように頼んだ。
呉が子服を見舞うとげっそりとやつれて果てており、見るも哀れである。呉が問い詰めてみると子服は涙を流してぽつりぽつりとあの日のあれからのことを話し出した。話を聞き終わった呉は笑って、
「なぁんだ、そんなことか。君も馬鹿だなあ。そんなこと僕が君に代わって捜し出して上げるよ。歩いて野遊びするなんて大家のご令嬢じゃないだろう。おそらく嫁入り前さ。いざとなったら金で片を付ければいいよ。それよりも早く体を治さなきゃ。そんなにやつれてちゃ、その娘と会えても嫌われるぜ。ま、僕に任せとくれよ」
と請け負って子服を勇気づけた。話を聞いた母親は呉に何とかその娘を捜し出してくれるよう頼んだ。呉は片っ端から心当たりを当たったが該当する娘はいない。母親と呉は途方に暮れてしまった。しかし、当の子服は呉の話に元気づけられて魂の半分が戻ってきたよう。食も進むようになった。
数日後、訪ねて来た呉に子服が首尾を問うた。呉は仕方なくでたらめを言った。
「それが存外簡単に見つかったよ。何と驚くなかれ、僕の伯母の娘、つまり君の従妹だったのさ。まだ嫁入り前なんだけど、あまりにも血が近いからどうかと思って黙ってたんだ」
「よく見つけてくれたね。で、どこに住んでるの?遠いのかなあ」
「西南の山の中だよ。三十里くらいかな」
子服のあまりの喜びように良心の痛みを感じながら呉は答えた。子服は今後のことも繰り返し呉に頼んだ。呉は快く引き受けて帰って行った。すっかり元気になった子服は以来ますます食も進み、日増しに回復していった。時折、枕の下の花を取り出してみるが、枯れてはいてもまだ花びらは落ちていなかった。それをいじっていると、あたかも思う人を懐に抱いているような気持ちだった。
子服はそのように日々呉の来るのを待ちわびていたが、いつまで待っても呉はやって来る気配がない。使いの者に手紙を持たせて催促しても、はかばかしい返事が得られなかった。業を煮やした子服は三十里の道のりなら自分で行って話を付けてくれよう、と例の梅の花を袖に忍ばせ、家人には告げずに出かけた。
所も名前も分からないのでひたすら西南の山を目指して歩いた。三十里余りも行った頃だろうか、景色ががらりと変わった。山はどこまでも重なり合い、木々の緑が肌に爽やかである。谷を見下ろすと花や樹に囲まれた小さな村里が見える。子服は何だか嬉しくなって足取りも軽く谷へ下りて行った。
村に入ると人家はそれほど多くなく、みな茅葺きであるが、その造りはこざっぱりとして何とも言えず風雅である。北向きの家は門前がみな糸柳で垣根の中は竹に混じって桃や杏が今を盛りと咲き誇り、その間で小鳥がさえずっている。人の家の庭だから勝手に入るわけにもいかず、ちょうど向かいに大きな滑らかな石があったので、それに腰掛けて休むことにした。
しばらくすると垣根の中から若い女の呼び声が聞こえた。
「小栄」
その声は細く艶やかに響いた。子服が耳をそばだてて聞いていると、若い娘が庭園の中で杏の花を自分の髪に挿そうとしていた。首をかしげた時にちょうど子服と目が合った。娘はプッと吹き出してそのまま花を挿すのをやめて、笑いながら中に入ってしまった。
子服はそ娘の笑顔を見た途端、全身の血が逆流するかと思った。あの娘だったのである。嬉しさに胸が躍ったが、いざとなると内に入る口実がない。伯母がいるのは分かっているが、困ったことに会ったこともなければ苗字も知らない。確かめることのできないまま、うろうろ歩き回っていた。陽が西に傾くまでそうしていたが、不思議と空腹を感じなかった。娘は不思議そうに時折覗きに来ては笑っていた。
突然、老婆が杖をつきながら内から出て来た。子服に向って、
「一体どちらの若様でしょう?朝からずっといなさるそうじゃが、どういうつもりですかな?お腹はお空きになりませぬか?」
と声を掛けた。子服は慌てて立ち上がると、
「親戚の家を探しております」
と答えた。老婆は耳が遠いようで何度も聞き返すので、子服も何度も大声で答えた。
「で、ご親戚の苗字は?」
老婆にそう問われて子服は口ごもった。子服の様子を見て老婆は笑って言った。
「さてさておかしなことじゃな。苗字も知らない親戚をお探しとは。お見受けする限り書生さんのようじゃが。まあ、今日はもう遅い、うちにお泊まりなされ。粗末な寝台でも野宿するよりはましじゃろう。明日の朝帰って、苗字をちゃんと聞いてからまた探しに来なされ」
そう聞いた途端、子服は猛烈に空腹を感じた。それに例の娘とも近付きになる機会もあるかもしれない。そこで老婆の言葉に甘えることにした。
門内は白い石を敷きつめ、敷石の両側に植えられた紅い花が階の上へ散りかかっている。西へ曲ると庭へ抜ける扉があった。扉を開けると庭一面に豆棚や花の棚が設えてある。案内されて客室に入ると白壁の塗りは輝くよう。窓外の海棠の枝が室内を覗き込んでいた。室内の調度はどれもきちんと整頓されていた。
座を勧められて落ち着くと、誰か窓から覗く者がある。老婆が言った。
「小栄、早く食事の用意を」
外にいた小間使いが返事をする。子服が自分の家系を詳しく述べると、老婆が驚いたように言う。
「もしかして母方のお祖父様のご苗字は呉ではありませんか?」
「はい、そうですが」
「とすると、あなたは私の甥っ子だ。お母さんは私の妹だよ。うちが貧乏で男手もないからずっとお付き合いがなかったんだけどね。こんなに大きくなっていたとは思いもよらなんだ」
「今日、こうしてやって来たのも伯母様を訪ねてなんです。ただ、苗字を忘れてしまったもんで」
子服が改めて深々と頭を下げるのを老婆が助け起こした。
「私の苗字は秦。男の子がいなくてね、妾の産んだ娘が一人いる。母親が再婚する時にうちに置いて行ったんだよ。頭は鈍くないんだけど、躾がなってなくていつものほほんと遊び呆けている。今、会わせて上げよう」
そう言う内に小間使いが夕食の膳を持って来た。老婆に勧められて箸を付けた。ひよこ料理で頗る美味である。食べ終わると小間使いが膳を下げに来た。老婆が小間使いに、
「嬰寧を呼んでおいで」
と命じた。間もなく部屋の外に若い娘の笑い声が響いた。老婆が大声で、
「嬰寧、従兄弟のお兄さんがお見えだよ」
と呼び入れた。笑い声は一向にやむ気配がない。小間使いに押されて入って来たが、それでもまだ笑っている。
「お客様だってのにケラケラ笑うて、早くご挨拶なさい。こちらはお前の従兄の王さんだよ」
老婆が叱り付けてようやく笑いやんだ。しかし、笑いを堪えてるようでその肩はヒクヒク震えていた。子服は娘に向って辞儀をしてから老婆に訊ねた。
「年はいくつですか?」
老婆は聞き取れなかったようで何度も聞き返す。子服が大声で繰り返すと、またその様子が娘には可笑しいらしくて笑い出して顔を上げることもできない。老婆は呆れたように言った。
「もう十六歳にもなるのに丸っきりのねんねえでね」
子服が言った。
「じゃあ、僕より一つ下ですね」
「おや、十七歳におなりかね。なら庚(かのえ)の午年だね。で、ご結婚は」
「まだ、独りです」
「これほど男前なのにまだ独り身かえ?勿体ないことだねえ。うちの嬰寧もまだ決まってなくてね。もしも身内でなければお似合いなのに」
子服は黙り込むと思いの丈を込めて嬰寧を見つめた。まばたき一つするのも惜しい思いで、じっと見つめた。娘が小間使いに囁いた。
「相変わらず人のことをじろじろ見てるわ」
娘は自分の言葉に笑いを誘われたようで、吹き出した。そして小間使いに向って、
「小栄、桃を見に行こう。もう咲いてるかもよ」
と言って立ち上がると袂で口を覆って小走りに出て行った。外に出てからはじけるように笑う声が聞こえた。老婆も立ち上がると女中を呼んで床の支度させて子服に言った。
「折角来たのじゃ。しばらく泊まっていくといいじゃろう。裏に庭もあるし、書物も少しばかりある。退屈はしないよ」