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碾玉観音(四)


 

 み笠を目深に被り、足には脚絆(きゃはん)を巻いて何本も紐の付いた旅用の麻の鞋(くつ)を履き、肩には風呂敷包みをくくり付けた天秤棒、といういでたちの男であった。
 男の方は向こうから来る崔寧の姿を認めたが、崔寧には男の顔を見えなかった。男は一瞬驚いた表情を示したが、ニヤリと片頬で笑うと顔を伏せて崔寧の後を尾けて行った。
 崔寧は尾けられていることに気付かないまま、ひたすら家路を急いだ。
「臨安崔親方の玉細工工房」
 崔寧は看板を掲げた一軒の店に着くと、中に向って声を掛けた。
「今、帰ったよ」
 男は少し離れた所からこの様子を見つめていた。迎えに出てきたのは女房の秀秀である。またもや男の顔に驚きの表情が浮かんだ。男は顎を撫でながらしばらく考え込んでいたが、
「これは使えるかもな」
 とつぶやいて崔寧の店へと向った。

「崔殿ではないか」
 突然、男が一人、そう言いながら店の中に入って来たので、崔寧夫婦は跳び上がるほどビックリした。振り返ると旅装束の男が立っている。男は編み笠を脱ぎながら、
「いやあ、久しぶりですなあ。こんな所におられるとは。秀秀殿もご一緒ですか」
 とことさら明るい声で話しかけた。男は驚きのあまりり何も言えない二人を尻目に、
「拙者は殿様のお使いで潭州まで書状を届けに参ったんですよ。はからずもお二人のお姿をお見かけしたもので懐かしさのあまり声をお掛けした次第です。お二人は所帯を持たれたのですか、いやはや、めでたい、めでたい」
 と続けた。
 この男は郡王府の衛兵で、幼い頃より郡王に仕えている者。名を郭立(かくりつ)という。その頃、潭州には清廉(せいれん)で名高い劉両府という武将が住んでいた。清廉な分、手元不如意(てもとふにょい)であった。そのため、臨安の高官貴族の間ではこの劉両府に金銭的援助を与えるのがちょっとした流行になっていた。咸安郡王もご多分にもれず、劉両府へ金銭を届けることにし、郭立を使者として遣わした。郭立は任務を果たして臨安へ戻る途中、偶然にも崔寧と出会ったのであった。
 崔寧夫婦は郭立の口から自分達が逃げて潭州にいることが郡王に伝わることを危惧(きぐ)した。そこで、急いで酒食の準備をすると郭立を引き止めにかかった。秀秀が甲斐甲斐しく給仕し、崔寧は郭立に酒を勧めながら言った。
「郭さま、臨安に戻られても郡王さまには私達夫婦のことは内密にして頂きたいのですが…」
 郭立は、
「左様ですな、拙者も奥向きのことはあずかり知らぬ身。ことさらお知らせする必要もありませんなあ」
 と答える。崔寧夫婦はこの言葉を聞くと、そろってひざまずいて郭立に謝した。いくばくかの金子を餞別(せんべつ)として渡したのは言うまでもないこと。

 臨安に戻った郭立はすぐに郡王に目通りすると、劉両府からの礼状を渡した。礼状に目を通す郡王に向って郭立がポソリと言った。
「世の中不思議なこともあるものですな。潭州であの二人を見かけました」
 郡王は劉両府の礼状に読みふけっていた。劉両府直筆の書状を持っていることは、臨安では自慢できることなのである。郡王は礼状から目を離さず、
「あの二人とな?誰じゃ?」
 とあまり関心のない様子で尋ねた。郭立が答えた。
「火事の時にいなくなった秀秀です。崔寧も一緒でした。あの二人は殿様には内密にしてくれ、と私に餞別までくれました。王府に仕える身としては、やはりご報告せねばと思いまして」
 ガタン、と椅子の倒れる音が響いた。郭立がハッとして郡王を見ると、郡王は、
「な、何と、秀秀は、あの二人は潭州にいるとな?余があれほど目をかけてやったというに…」
 と怒りのあまり、その顔色は真っ青になっていた。郭立が続けて言った。
「私も仔細には知りません。ただ、彼の地で玉細工の看板を揚げておりました」
 郡王は用人を臨安府へ遣わして一隊の捕吏をすぐに潭州へ派遣するよう要請した。捕吏は潭州に到着すると、すぐさま州長官に臨安府からの令状を示して崔寧夫婦を捜し出して身柄を拘束するよう命じた。

 

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