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鯉(三)


 

 れ、趙幹の垂らした釣り針なのさ。ついている餌はといえばちっぽけな虫なのだが、ひもじさで死にそうなワシにとってそれは珍味佳肴(ちんみかこう)にも等しく見えた。しかし、これに食いついたが最後、釣り上げられるのがオチだ。そうは思いながらもついつい口を近づけてしまうのだから、これこそ悪魔の誘惑だな。
「いかん、いかん、ワシは人間だ。今のこの姿はあくまでも仮のものだ。いくら腹が空いているからとて、こんな虫を食べていいものか。これこそ、人としての尊厳に係わることぞ」
 そう思いなおしてその場を去ると、気を紛らわせるために辺りを泳ぎ回った。しかし、ひもじさはますますつのる。まるで腹が焼けるようなのだ。空き腹を抱えて、ワシはこんなことも考えた。
「待てよ。魚の姿をしているからといって、ワシが役人であることには変わりはない。釣り上げられたところで、ただの漁師にこのワシを殺せるか?いや、殺せまい。きっと丁重に役所に返してくれるにちがいない」
 しばらくの間、ワシの中には二人のワシがいて「食うな」「食え」と争っていた。そして、ついに「食え」と言うワシが「食うな」と主張するワシをねじ伏せた。
「お、これは大物だ」
 趙幹の声とともに、ワシは久しぶりの外気に投げ出された。趙幹がピチピチと跳ね回るワシの体をつかもうと手を伸ばしたので、
「趙幹、ワシだ、ワシだ」
 と呼びかけた。しかし、やつは気にもとめずにワシの体をつかんで手際よく鰓(えら)に縄を通すと、葦の間に押し込んでしまった。しばらくすると張弼がやって来た。
「裴少府様が鯉をご所望だ。大きいのをくれ」
 すると、趙幹のやつ、とぼけて、
「今日は大きいのはまだ釣れとりません。小さいのなら合わせて十斤(注:一斤は約600グラム)ほどありますがね」
 と答えるではないか。張弼は、
「大きいのを買ってこいとのご命令だ。小さいのでは役に立たんわ」
 と引き下がらない。そこで、ワシは葦の間から大声で呼ばわった。
「おい、おい、ワシはここだ。早く役所へ連れ帰っておくれ」
 そして大いにもがいたのだ。葦が揺れているのに気づいた張弼はワシを引っ張り出した。
「何だ、隠してたのか」
 ワシは訴えた。
「おい、ワシだ。主簿の薛偉だ。魚の姿で泳いでいただけだ。ワシがわからぬのか。おい、挨拶ぐらいしろ」
 しかし、張弼も何も気がつかない。そのままワシをぶら下げて歩き出した。その道々、ワシはわめき続けたのだが、張弼め、知らぬふりを決め込んでそのまま役所の門をくぐって行った。門のところで下役人が碁を打っていたのでワシは大声で救いを求めたのだが、誰も返事をしてくれない。それどころか、
「立派な鯉だなあ。三、四斤はあるぞ」
 と言って、笑いながら見ている。座敷では鄒県丞と雷県尉が双六をしており、裴殿が桃をかじっているところであった。張弼がワシを見せると、三人とも大物だと喜び、すぐさま料理人の王士良に膾を作るよう言いつけた。また、張弼が趙幹の鯉を隠した一件を話すと、裴殿は怒って鞭打ちを命じられた。ワシは、お三方に大声で助けを求めた。
「あなた方は同僚のワシを殺して食おうというのですか。ワシですぞ、ワシですぞ。同期任官のよしみであんなに懇意にしていたのに、そのワシを食うおつもりか。ああ、こんなに情けないことがあろうか」
 そう言って、声を放って泣いたのだが、それでも知らんふりをしておられる。
「これは生きがいいな。ピチピチはねておるぞ。さぞかし美味いことだろう。早く料理させよう」
 ことここに至ってはワシも絶望した。
「何と!助けてくれぬばかりか、早く料理させよとは!!」
 張弼がワシを厨房に連れて行くと、ちょうど王士良が包丁を研いでいるところだった。王士良はワシを見ると、
「これはよい膾ができますな」
 と言って顔中にニタニタ笑いを浮かべながら、ワシをまな板に横たえた。もう、ワシは必死になって泣き叫んだ。
「王士良、王士良、お前はワシにいつも料理を作ってくれていたではないか。それが、今日はワシを料理しようというのか。ワシだ、ワシは薛主簿だ。助けてくれ。お願いだ!!」
 王士良は相変わらずニタニタ笑いを浮かべてワシの首をまな板に押さえつけると、包丁を振り下ろした。

「…首が落ちたと思った途端、ワシは目が覚めたというわけだ」
 薛偉はこう話をしめくくった。一同はそのあまりの不思議さに、ただ顔を見合わせるばかりであった。趙幹、張弼、下役人、三人の同僚、王士良の誰もがこの鯉の口がパクパク動くのを見ていたが、声は聞こえなかったのである。
 この話を聞いた一同はこれ以後、二度と膾を口にしなかった。

(唐『続玄怪録』)

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