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報仇剣(前編)


 

 将という優れた刀鍛冶がいた。本来は呉の人であったが、後に居住していた場所が楚に併合されたため、楚王に仕える身となった。
 ある時、干将は楚王に召し出された。楚王は鋼の塊を取り出すと、干将に手渡した。塊はあまり大きくはなかったが、持ってみるとずっしりと重い。極めて上質の鋼であった。干将が慎重に検分しているのを見て、楚王が言った。
「これは呉の武器庫から発見された鉄胆腎だ。珍しいものだ。どのようにして手に入れたのかは言わないでおこう。そちは昆吾山に住む珍獣のことは 知っておるか?かやつは兎のような外見で、雄は黄金、雌は白銀の毛並みでな、地中深くに穴を掘って巣としておる。食べるのは昆吾山に産する朱砂や丹石。時には銅や鉄なども食べる。それ故、その胆や腎臓は鋼の如き様相を呈しておるわけだ。この珍獣が、いつの間にか呉の武器庫に入り込んでな、保管してあった武器や鉄器の類を全て食らってしまったのだ。気が付くと武器庫が空っぽになっていたのだから、呉王はさぞ驚いたことだろう。出入口の厳重な封印は元のままだったのにだ。しばらくして武器庫内をくまなく捜索して、やっと一つがいの兎もどきを狩り出したというわけだ。半信半疑でその腹を割いてみたところ、その内臓はすっかり鋼に変わっていたのだ。おそらく、越の句踐(こうせん)が昆吾山の神に祈願して得た鋼もこのようなものだったのだろう。これぞ鉄の精髄ぞ。これで宝剣を二振り鍛えるのだ。王命だ、句踐のあの五振りの宝剣を超える宝剣を鍛えよ」
 句踐の五振りの宝剣を鍛えたのは干将の同門で越の名工欧冶子(おうやし)であった。干将の心の中に欧冶子への対抗意識がなかっと言ったら嘘であった。干将は手の中で冷たい光を放つ鉄胆腎をしばらく見つめていたが、やがて無言で床にひれ伏すと、楚王の前から退いた。
 干将の妻は莫邪(ばくや)と言った。莫邪は妻であるだけでなく、優秀な助手でもあった。帰宅した干将は早速莫邪と共に仕事に取りかかった。
 まず大きな炉を築き、大きなふいごを据え付けた。四方の名山から鉄の精華を集め、天の時、地の利を見極め、陰陽が交わり、百神が降臨したその時、炉に火を入れたのである。炉の中で炎が勢いよく燃え上がった。そこへ鉄胆腎と鉄精を入れたのだが、不思議なことに一向に溶けないた。勢いよく炎が燃え上がっているにもかかわらず、炉の中の温度が全く上がらないのである。鉄は塊のまま、炎の中で冷たい光を放っていた。さすがの名工干将にもさっぱり原因がわからなかった。このようなことが実に三ヵ月も続いた。
 莫邪が言った。
「あなたのような名工がいまだに鉄を溶かすことさえできないなんて、一体どういうことでしょう?」
 干将は首を振って答えた。
「ワシにもわからん」
 莫邪はしばらく考えて込んでいたが、やがて口を開いた。
「神物の変化を求める時には、決死の覚悟が必要だと聞いております。もしかしたら、私達にはその覚悟が足らないのでは?」
「おお、そう言えば我が師も金や鉄を鍛えようとした時、どうしても溶けぬことがあったとおっしゃっていた。うん、その時はご夫婦で炉の中に飛び込んだそうだ。そうしたら、あれほど溶けなんだのがあっさり溶けたと言っておられた」
「やっぱり、そうでしたか。あなたのお師匠様に私も倣いましょう」
 莫邪はそう言うと、手近に置いてあった小刀を掴んだ。そして、豊かな黒髪を項(うなじ)からプッツリと断ち切った。
「あっ!」
 干将は驚いた。当時、髪の毛には人の霊魂が宿ると信じられていたため、男女を問わず、髪を伸ばしていた。髪を切るという行為には、自分の命を削るという意味でもあった。実際、髪の毛を断ち切る刑罰も存在した。
 それに続けて、莫邪は指の爪を手早く切った。そして、髪の毛と爪を自分の身代わりとして炉の中に投げ込んだ。その途端、炉の中の炎が勢いよく燃え上がり始めた。

 

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