報仇剣(中編)


 

 邪が髪の毛と爪を投じたことにより、炉の炎は彼女の霊魂の一部を宿すものとなった。すると、三ヵ月の間、姿を変えることのなかった鉄胆腎と鉄精がゆっくりと溶け始めた。干将は気力を失って倒れた妻を胸に抱き寄せて言った。
「お前の魂が鉄を溶かした。今度はワシが生命を吹き込もう」
 干将は来る日も来る日も炉の前でふいごを動かし続けた。十分に鉄胆腎が柔らかくなるのを待って、干将は金槌を手に鉄床に向かった。一打ち一打ちに全身全霊を込めて、鋼を鍛えた。一打ちごとに、干将の赤銅色の肉体から鋼に命が注ぎ込まれた。
 莫邪の魂と干将の心血に育まれて鉄胆腎は徐々に姿を変えていった。干将は鋼を打ち続けた。その目は炉の側に坐り続けたため、真っ赤に充血していた。
 干将が楚王から鉄胆腎を受け取ってから三年経った時、最後の焼き入れを迎えた。
 いよいよ、炉開きの時がきた。炉から二筋の青白い光が高く中空まで立ち昇っていた。炉の中には真っ赤に焼けた二振りの剣が横たわっていた。
 干将は、莫邪が谷川から汲んできた清水に手を浸すと、真っ赤に焼けた剣を取り上げて、濡れた手でしゅっとしごいた。辺りは濛々とした湯気に包まれた。もう一本も同様に濡れた手でしごいた。干将は大きくうなずくと、二振りの剣を清水に浸した。赤く焼けた剣は水のなかでシュウシュウと唸り声を上げた。静かになった頃、干将は剣を取り出した。剣は透き通るような青白い光を放っていた。干将は二振りの剣を天空に向けて構えて叫んだ。
「私はこの剣に名を付けた。こちらの雄剣は干将、雌剣は莫邪、我等の名だ」
 丹念に研ぎ上げた宝剣を楚王に献上しに行く朝がやってきた。身支度を終えた干将は莫邪に言った。
「お前とはこれで永の別れになるだろう」
 莫邪は驚いた。
「大仕事をやり遂げたこの時に、何を不吉なことをおっしゃるのです?」
「この世に無二の剣を作り上げた私を大王が生かしておくはずはあるまい。無二の剣を超えるものが生み出される可能性があってはならないのだ」
「ならば、剣は作れなかった、炉もろとも砕け散った、と申し上げればよろしいのでは」
 干将は静かに首を振って言った。
「そうはいかぬ。この宝剣が完成した時、青白い光が空に立ち昇った。それは都の王の目にも見えていたはずだ。隠し通すことは出来ぬのだ」
 泣き崩れる莫邪に言った。
「よくお聞き。お前の腹の中には私の子種が宿っているはずだ。きっと男の子が生まれるだろう」
 前日の夜、二人は三年ぶりの夫婦の契りを交わしていた。干将は涙にかき暮れる妻の背を撫でながら言った。
「私は、お前の名を付けた雌剣だけを献上するつもりだ。雄剣はやがて生まれる息子のために隠しておいた。この意味はわかるな?息子が大きくなったら、この言葉を教えるのだ。

  南山の北、北山の南
  松の石上より生えるあり
  剣、その背にあらん

 よいか、忘れるでないぞ」
 そして献上する宝剣を納めた箱を背負うと、莫邪を残して干将は出かけた。それが、莫邪が見た干将の最後の姿であった。

 莫邪は干将の予言通り、男の子を産み落とした。額が広く秀でていたので、莫邪は子供に眉間尺(みけんじゃく)と名付けた。
 物心ついた時から、眉間尺はいつも不思議に思っていた。よその子供達には父親がいるのに、なぜ自分には母親しかいないのだろう。彼は一度、この疑問を母にぶつけてみた。母は寂しそうな顔をして答えた。
「お前が大きくなったら、教えて上げましょう」
 母を困らせてはならないと思った眉間尺はおとなしく引き下がった。眉間尺は早く大きくなれるよう願った。早く大きくなれば、それだけ母を助けることができるし、父の行方を探すこともできる。眉間尺は毎日、早く大きくなれるよう天に祈った。
 その願いが通じたのかどうかはわからないが、眉間尺はスクスク成長した。一人で薪割りができるようになった頃、眉間尺は母に同じ質問をした。
「私のお父さんはどこにいるのです?」
 母の表情が改まった。その表情に眉間尺はただならぬものを感じ取った。
「そろそろ、答えてもいい時期でしょう」
 母は眉間尺を目の前に坐らせると、自身も居住まいを正した。
「これも全てあの暴君のせいです」
 ふり絞るように言って、母ははらはらと涙を流した。眉間尺は驚いた。母の泣くのを見るのは初めてだったからである。
「よくお聞き。お前のお父様は天下第一の刀鍛冶でした。大王のために三年間、命を削って二振りの剣を鍛えたのです。それに対して、大王はどのような報酬(ほうしゅう)を与えたか、お前に想像がつきますか?」
 眉間尺は一言も答えられなかった。いきなり、「暴君」やら「天下第一」などと聞かされて面食らってしまったのである。
「暴君からの報酬は死だったのです」
「お父さんは殺されたのですか?どうして?」
 眉間尺はせき込んでたずねた。
「風の噂では己の鍛えた剣の切れ味を試すために、犠牲になられたということです。刀鍛冶として、自分の仕事の出来ばえを命を懸けて証明したということになっていますが、そんなことは真っ赤な嘘です。あの暴君は、お父様が無二の宝剣を超える新たな剣を鍛えるのを恐れて殺してしまったのです」
 それを聞いた眉間尺は天を仰いで叫んだ。
「ああ、天よ!こんな不条理が許されてたまるものか!!」
 怒りの余り、眉間尺の秀でた額に青黒い血管が浮かんだ。そして、いつも薪割りに使っている斧を掴むと、飛び出して行こうとした。
「どこへ行くのです?」
「暴君の素っ首を叩き落としてやります」
莫邪は息子の体から鋼のような殺気がみなぎるのを認めた。

 

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