睡姫(後編)


 

 を背に華やかな楼閣が甍(いらか)を連ねていた。周囲には花が咲き乱れ、艶麗な美しさを誇っていたが、いささか品位にかけるきらいがあった。その香りは脂粉(しふん)とよく似ていたのである。少年の美貌に心をすっかり奪われていた某には、もとより気付くはずもなかったのだが。
 少年は某をひときわ華美な一室に導いた。そこに居並ぶ侍者(じしゃ)はいずれも惚れ惚れするような美少年で、その挙措の端々にはこぼれるような色香が見られた。
 少年は酒を勧めながら言った。
「この方丈山は金仙の住まうところです。あなたには縁があったのでしょう。そうでなければ、とるに足らぬ鳥がどうしてここまで来られましょう」
 酒が回るにつれ、少年はあふれるような媚びを見せ、某にしなだれかかってきた。某もこの道にかけてはかなりの好き者であったので、懐に手を差し入れたりして楽しんだ。
 その時である。突然、鸞の鳴き声が響いた。その途端、少年の美しい顔が紙のように真っ白になった。侍者達は倉皇(そうこう)として逃げ散った。
 赤い練り絹のような物がヒラヒラと舞い込んできたかと思うと、美女が怒りに満ちた表情で立っていた。美姫であった。その足元には鸞と鶴が翼を羽ばたかせていた。
 某が少年を振り返ってみると、その姿はすでに石卵(せきらん)と化していた。両手に余るくらいの大きさであった。
 美姫はその石を拾い上げると、某に笑いかけた。
「身のほど知らずな輩が。だんな様には、やはり福運がなかったようですわね。さあ、お宅までお送りいたしましょう。皆さん心配なさっているはずですわ」
 某は穴があったら入りたい思いで、鶴に跨った。鶴は一声高く鳴くと大空へ向かって羽ばたいた。鶴が上昇するにつれ、華麗な楼閣はかすんでいき、巍々 (ぎぎ)たる峻険(しゅんけん)が聳(そび)えるのを見た某は、長く留まるべき場所でないことを悟った。
 まもなく鶴は見慣れた書斎の庭先に舞い降りた。某は書斎に入ると、疲れ果てた体を横たえた…。

「だんな様が目を覚まされた!」
 誰か耳元で叫ぶ声で某は目を覚ました。
 目を開くと、心配そうに寝台を取り巻く家人の姿が見えた。家人の話によると、某はまる二日間眠っていたとのことであった。急いで美姫の様子を見に行かせようとしているところへ、美姫の小間使いが某を呼びに来た。某がその枕元へ駆けつけると、美姫は某の手を取って別れの時が来たことを告げた。
「だんな様に一目芙蓉城の姿をお見せしとうございました。しかし、鸞は遅く鶴は速すぎ、そのため妖魔に惑わされ、私にはお救いすることしかできませんでした。私はもう戻らねばなりません。再びお会いすることはできませぬが、どうかあまりお悲しみにならないで下さいませ」
 そして、枕の下から丸い石を取り出すと、某に握らせた。
「これが旦那様を惑わした妖魔です。中には宝が隠されております。朝夕の無聊をお慰め下さい。私からのせめてもの償いでございます」
 そう言い終わるや、息をひき取った。
 某にはそれが単なる死ではなことがわかっていた。美姫は芙蓉城に戻ったのである。某は言われた通り深くは嘆かなかった。手厚く葬り、その墓石 に、
「睡姫之墓」
 と記して、その在りし日を偲(しの)んだ。
 例の石を玉職人に命じて割らせたところ、玉の兎が出てきた。全身真っ白で目は赤く、天然の技巧でまるで本物のようであった。
 某はこの兎を肌身はなさず持ち続けたという。

(清『蛍窓異草』)

戻る