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暗殺行(一)


 

 (えん)の太子丹が秦へ人質として赴いたところ、秦王政(後の始皇帝)から無礼な扱いを受けた。丹が憤って故国へ帰ることを求めると、政は次のような条件を出した。
「烏の頭が白くなり、馬の頭に角が生えたなら、その時は帰ってよいぞ」
 絶望した丹は天を仰いで嘆いた。すると、烏の頭が白くなり、馬の頭に角が生えた。政はやむをえず丹を燕に帰らせることにしたが、罠(わな)を仕掛けておくことは怠らなかった。
 一路、燕を目指す途中、丹は橋を渡った。実はこの橋こそ罠で、丹を河に落とし込む仕掛けになっていた。しかし、機械の故障によるものか仕掛けは動かなかった。丹は無事に橋を渡り終えた。
 丹が関所に到着したのは真夜中であった。夜明けまでまだ間があり、関所の大門はぴったりと閉ざされていた。丹が鶏の鳴きまねをすると、あちらこちらでそれに応じる鶏の声が返ってきた。やがて、鶏達が一斉にときを告げた。てっきり夜が明けたと勘違いした関守(せきもり)が大門を開いたので、丹は秦を脱出することができた。

 丹は秦を深く怨み、復讐の機会をうかがった。多くの勇士を養い、来たるべき時のために準備をすすめた。その間にも秦の勢力は拡大し、燕へと迫りつつあった。
 焦った丹は守り役の麹武(きくぶ)に書を遣わした。

 丹は不肖にして、このような辺鄙(へんぴ)な国に生まれつき、不毛の地で育ちました。いまだかつて君子の雅訓や達人の道に接したこともありません。しかし、私にもそれなりの意見はあります。どうかお聞き下さい。
 丈夫は恥辱を受けて生きることを恥じ、貞女はその節義をけがされることを恥じ、そのためには首を刎(は)ねることもいとわなければ、鼎にすがることもいさぎよしとする、と聞いております。彼らは決して死を楽しんで生を忘れているのではありません。その心に死と引きかえにしても守るべきものがあるのです。
 今、秦王は天の道理に叛き、その行いは虎のごとし。丹を遇すること、甚だ無礼でありました。諸侯の中で一番ひどいものでした。私、丹はこの怨みは片時とも忘れておりません。しかし、悲しいことに、我が燕は小国、秦の勢いに敵うべくもなく、防守に努めておりますが、それもいつまで続くものか。
 かくなる上は、天下の勇士、海内の英雄を集め、国庫を傾けて養い、また、秦に対しては財宝と甘言をもって利をちらつかせるのです。秦は我が賂(まいない)を貪(むさぼ)り、我が言葉を信じましょう。その時、剣士が一太刀(ひとたち)浴びせれば、百万の軍勢にも相当する働きをするでしょう。一太刀で、私、丹は万世の恥をすすぐことができるのです。何もしなければ、丹は天下に面目をなくし、恨みを飲んで九泉(きゅうせん)に死ぬしかありません。
 結局、諸侯達は易水の北で何が起きたかなど知りもしないでしょう。これもまた男として最大の恥辱です。恥じ謹んでこの書をお届けします。願わくはご熟考なされんことを。
 ほどなくして麹武から返書が届いた。それにはこう書かれてあった。
 急(せ)いては事を仕損じ、思いつめれば心を損なう、と聞いております。今、太子は憤りからの恥辱を消し去り、長い怨みを除こうとしております。これこそ臣が力を尽くしてお止めせねばならぬことです。
 思いますに、知者は運よく功名を得ることを望まず、明敏な者は相手の心を掴むために媚びるようなことはいたしません。事が成し遂げられてから称揚することにすれば、その人は安心して事にあたることができます。失敗を恐れることもなければ、仕損じて恥をかくことも心配しないですむからです。太子は蛮勇(ばんゆう)を貴んで一太刀の働きを信じ、焦って結果を得ようとしておられる。だからこそ、臣は意見するのです。
 太子、まずは南に楚と同盟を結び、趙と軍勢を合わせ、西に韓、魏と連合して、それから秦にあたるのです。そうすれば、必ずや秦を破ることができましょう。韓と魏が秦と親しくしているのはうわべだけ、内心はそうではありません。もしも兵を挙げると宣言すれば、楚はきっと援軍を出すでしょう。韓、魏も同様です。そうすれば、大勢は見えたものです。
 臣の策は太子の恥をすすぎ、我が国の憂いを解くものです。太子、とくとご考慮なされよ。
 軽挙を諌める内容を、丹は喜ばなかった。そこで、麹武を召し寄せると、
「太子が臣の言に従えば、易水の北からはとこしえに秦の憂いは除かれ、四隣(しりん)の諸侯はきっと我が国に協力してくれましょう」
 と、なおも諌めようとする。太子はいら立って声を荒げた。
「それでは時間がかかりすぎる。私はもう待ってなどいられないのです!」
「臣は太子のために策を練りました。秦について、焦りや軽挙は禁物です。慎重に事を構えるに越したことはありません。今、楚、趙、韓、魏と同盟すれば、時間こそかかりますが、必ず事を成し遂げることができます。臣はこれが最善の策と思います」
 丹はゴロリと横になって寝たふりをした。麹武は丹がそれ以上話を聞く気がないことを知った。
「臣には太子の満足するような策を献ずることはできないようですな。臣の知り合いに田光(でんこう)という御仁(ごじん)がございます。内に智謀(ちぼう)を秘めた人物です。太子にお引き合わせしましょう」
 丹は起き上がった。
「是非、引き合わせて下さい」

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