Make your own free website on Tripod.com

 

暗殺行(二)


 

 光が麹武の求めに応じて参内すると、丹は階を降りて出迎えた。丹は田光の前に跪いて再拝した。各々着座してから、丹は早速、こう切り出した。
「このような僻地(へきち)、私のような不肖のもとへようこそおいで下さいました。我が燕国は蛮域にも等しい北辺の僻地にございます。先生、このような国に招かれたこと、さぞご気分を害されたことでしょう。不肖丹が先生のお側に侍り、ご尊顔を拝し奉ることができたことこそ、まさに先祖の霊が燕国を助け、見捨てまいという証拠にほかなりません。先祖の霊が先生を遣わしたのです」
 田光は丹の礼を受けながら言った。
「私も長らく太子の徳行をお慕い申し上げておりました。その太子が、私に何をさせるおつもりです?」
 すると、太子は膝を進めながらはらはらと涙を落とした。
「私はかつて秦の人質となっていた時、甚だ無礼な扱いを受けました。日夜、このことが心を離れず、怨みを晴らしたいと思い続けております。衆寡(しゅうか)を論ずれば、秦の方がまさります。また強弱を量れば、燕の方が弱いのは火を見るよりも明らかです。他国と同盟して秦に対抗しようかとも思うのですが、私の心は秦への怒りと怨みに乱れ苦しみ、じっとしていることもできません。このことが私の心をさいなみ、食らうことも、寝ることも満足にできない有様なのです。たとえ燕と秦が同じ日に滅びようとも構いません。我らは再び力を盛り返しますから。先生、どうか策をお授け下さい」
 田光は言った。
「これは国の大事です。少し時間を下さい」
 丹は田光を国賓として遇した。三度の食事はすべて丹が手ずから運び、そのつど策を催促するのを忘れなかった。
 こうして三ヶ月が過ぎたが、田光は何ら策を授けようとしなかった。丹もさすがに不審の念を抱き始めた。

 丹は人払いをすると、襟を正して田光に問うた。
「先生は私を憐れに思い、策を授けると約束して下さいました。こうしてずっとお側に侍ってすでに三月になります。先生、いかなる策をお持ちなのかそろそろお聞かせ願えないでしょうか」
 田光は言った。
「太子のお言葉がなくとも、私から申し上げようと思っていたところでした。
『駿馬(しゅんめ)は血気盛んな時には一日千里をも走るが、老いれば歩くこともままならぬ』
 と申します。太子、私はすでに老いてさらばえております。おそらく老いた私の献ずる策を、太子はよしとなされないでしょう。また、体を張ってお役に立とうにも、私にはもはやそのような力、残っておりません。ならば、太子が養っておられる剣士達ですが、私が拝見するに一人として役に立ちそうにありません。たとえば夏扶(かふ)は血勇の人で怒るとすぐに顔が赤くなります。宋意はといえば、これまた脈勇の人で怒ると顔が青くなる。武陽は骨勇の人で怒ると顔が白くなる。このように感情がそのまま顔に出るような者にどうして大事を任せられましょう。まこと神勇の人で怒っても顔色一つ変えないのは、私が知る限り荊軻(けいか)ただ一人でございます。荊軻の人となりは博識豊かで体躯(たいく)は堂々とし、細かいことにこだわらず、大きな志を抱いております。かつて衛にいた折、賢人の危難を救ったこと十数度、そのほかは言うに及びません。もしも大事を成し遂げたければ、このような人物を召し出すべきです」
 丹は田光を再拝した。
「どうか先生の仲立ちで、その荊軻という人とお引き合わせ願えないものでしょうか。そうすれば、我が燕国は生き延びることができます」
「よろしいでしょう」
 田光はそう言うと、早速、席を立って出かけようとした。丹は田光の手を握ってこう言った。
「先生、これは国の大事です。くれぐれも他言は無用に願います」
 その途端、田光の目に失望の色が浮かんだ。
「わかっております」
 田光は冷たく笑って丹に背を向けた。

 田光はその足で荊軻のもとを訪れると、事の次第を語って聞かせた。
「私は自らの不肖もわきまえず、貴公を太子に推薦してしまった。太子は天下の人物で、貴公を求めておられる。どうか太子のもとへ行ってはくれまいか」
 荊軻は言った。
「私は常々こう思っております。まことに心にかなう相手ならば命を投げ出してもかまわない。少しでも違うところがあれば、毛一筋抜くのさえごめんです。先生が太子のもとへ行けとおっしゃられるのなら、つつしんで参りましょう」
 今にも出かけようとする荊軻に向かって田光は言った。
「士たる者は人に疑いを抱かせぬ、と聞き及んでいる。太子は私を送り出す時、国の大事だから他言は無用と念を押された。太子は私を疑っておいでなのだ。何と恥ずべきことであろう。こうまで疑われておめおめ生きていられようか」
 そう言うと、舌を噛み切って果てた。
 荊軻は田光の最期を見届けると、丹のもとへ出向いた。

 

戻る                                 進む