蓮花(二)
湘若が寝込むようになってからも、女は相変わらず通って来た。美味しい果物を持って来て食べさせ、甲斐甲斐しく看病した。まるで長く連れ添った夫婦のようであった。
ただ困ったことにこのような状態になっても共寝を強いてくるので、湘若もほとほと弱り果ててしまった。普段ならともかく、病気を抱えている身である。この頃から女が人間ではないのでは、と疑念を抱くようになった。
湘若は試しにこう言ってみた。
「以前、寺に来ている坊さんに、僕に化け物がとり憑いていると言われたことがある。あの時は取り合わなかったけど、今、こうして病気になったってことは、あの言葉が嘘じゃなかったってことだね。明日にでも来てもらって御祓いをしてもらうよ」
女は浮かない表情で、湘若の言葉を聞いていた。その晩はさすがに女も共寝を強要せず、おとなしく帰って行った。
翌日、湘若は寺へ人をやって、喇嘛僧に女のことを伝えさせた。話を聞いた僧は、
「それは狐ですな。まだ未熟者のようだから捕まえるのは簡単ですぞ」
と言って護符を二枚書いてくれた。
「帰ったら洗い清めた壜(かめ)を一つ用意なさい。その口に護符を一枚貼りつけて、病人の寝台の前に置きなされ。狐がやって来てこの中に吸い込まれたら、すぐさま鉢で蓋をして、もう一枚の護符で封印をするのじゃ。そのまま釜で沸かした湯の中に壜ごと投げ込んで強火で煮殺してやればよい」
家人は戻ると、早速、僧に言われた通りに用意した。
夜更けになって、女がいつものようにやって来た。女は袖から取り出した金柑を手にして、湘若の寝台に近付こうとした。その時、壜の口からスゥッとものを吸い込む音がしたかと思うと、女の姿は消えていた。そこへ待機していた家人が飛び込んで来ると、壜の口に鉢を被せて上から護符で封印をした。そのまま、中庭に用意した釜の熱湯の中に放り込もうとした。その時、
「待て!」
と叫んで湘若がよろめき出て来た。
湘若は寝台の下に金柑が散らばっているのを見ると、にわかに女との情愛の種々(くさぐさ)が思い出された。そのまま煮殺してしまうには忍びなかった。中庭に下りてくると、よろめく足取りで壜に歩み寄った。
「これに悪気はなかったのだ。僕の意志が弱かっただけさ」
そう言って護符をはがして鉢を取り去ると、女が転がり出た。大層怯えた様子で辺りを見回していたが、許されたことがわかると地に額を擦り付け、涙ながらに礼を述べた。
「修行が終わろうというこの時に、もう少しで灰になるところでした。あなたは本当に情け深いお方ね。必ずご恩返しをいたしますわ」
そのまま姿を消した。
それから数日も経つと、湘若の病状は益々重くなり、明日をも知れぬ状態に陥った。縁起直しのために家人が町へ柩を買いに走ったが、その途中、一人の女に声を掛けられた。
「お前は宗湘若様にお仕えしている者かえ?」
「左様でございます」
家人がそう答えると、女は言った。
「宗の若旦那のお父さまは私の伯父様に当たるの。ご病状がよくないと聞いて、お薬をお届けに上がろうと思っているんだけど、うちの方も色々と忙しくて行けそうにないのよ。そこでお手数だけれど、一つ頼まれておくれ」
女は袖の中から薬を一包み取り出した。家人は薬を受け取ってそのまま引き返した。家人から話を聞いた湘若は、すぐに狐の恩返しだと察した。湘若には従姉妹などいなかったからである。
早速、薬を飲んでみたところ、あれほど重かった病状が嘘のように良くなった。十日も安静にしていると、すっかり治ってしまった。湘若は狐に深く感謝し、今一度会って礼を述べたいと思った。
ある夜更けのことである。湘若が戸を閉めて一人手酌で酒を飲んでいると、誰かが指で窓を弾くのが聞こえてきた。急いで窓を開けてみると、夢にまで見たあの狐の女が立っていた。喜んだ湘若は女を中へ招き入れ、引き留めて一緒に酒を酌み交わした。女がしみじみと言った。
「お別れしてからずっと、どうご恩返しをしたらいいものか考えておりましたのよ。なかなか名案が浮かばなくって…。こんな夜に、お一人でお過ごしなんてちょっと寂しすぎるわ。ねえ、私がいい方をご紹介して差し上げたら、少しはご恩返しの足しにならないかしら」
湘若が、
「どんな人なの?」
ときくと、
「あなたの知らない人よ。明日の朝、辰の刻(注:午前8時)に小舟で南湖へいらして。菱の実採りの女がたくさんいるはずよ。その中に薄絹の袖無しを着ている人がいるから、その後を追いかけるの。もし見失ったら、すぐに堤の側の蓮の茂みの中で茎の短いのを探しなさい。見つかったら摘んで帰って、蝋燭の火で炙ってやるの。そうすれば、美人が手に入るわ。ううん、それだけじゃない、長生きもできるのよ」
と答えた。湘若は女の一言一言を心の中に刻み込んだ。
「じゃあ、私、行くわ」
女は立ち上がると別れを告げようとしたので、湘若は慌てて引き留めた。女は湘若の手を振りほどくと、顔色を改めた。
「災難に遭ってから悟ったのです。あなたもお悟りになったでしょう」
そう言い残して、立ち去った。