蓮花(三)


 

 朝、湘若は女に言われた通り南湖に行った。見ると、揺らめく蓮の中に無数の小舟が浮かび、どの小舟にも美人が乗っていた。中でも髪を後ろに垂らして薄絹の袖無しを纏った人が一際、美しかった。
 狐の女が言っていた人だと見当を付けた湘若は舟をせき立てて近寄った。それに気付いた袖無しの美人は小舟を返し、忽ち姿が見えなくなった。湘若は堤に舟を寄せさせて、蓮の茂みを探した。果して、茎の長さが一尺に満たない紅の蓮が一本見つかった。それを丁寧に折り取ると、懐に入れて帰った。
 書斎に入ると戸を締め切った。懐から取り出した蓮を机の上に置いて蝋燭に火を灯した。顔を上げてみれば、机の上に美人が坐っていた。驚喜した湘若がその足をかき抱くと女は、
「お馬鹿さん!私は妖狐よ、祟りが怖くないの?」
 と言った。しかし、湘若は取り合わなかった。
「一体、誰から私のことを聞いたの?」
「誰でもないよ。僕は君を見て一目で恋しちゃったんだ。だから見分けられるのさ」
 湘若はそう言いながら机の上から女を抱き下ろした。女は黙ってされるままになっていたが、懐に抱き寄せた時には透き通った石に変じていた。高さ一尺ばかりで水晶のように美しかった。湘若は改めて机の上に石を安置し、香を焚いて拝礼した。
 その夜は女が逃げてしまうのを恐れて、厳重に戸締りした上で夜通し石の側に坐っていた。明け方になって、ようやく少しウトウトして目覚めてみると、机の上から石が消え失せ、代わりに薄絹の袖無しが残されていた。
 手にとってみると、ほんのりと蓮の花の香りがした。湘若はその袖無しを胸に抱き、布団を被って寝た。暮れ近くに起きて灯火を掲げて戻ってくると、枕元に髪を垂らした美人が薄絹の袖無しを着て坐っていた。女は湘若に笑顔で言った。
「因果なことだわ。この色好みさんは一体、どこのお喋りさんに唆されたのかしら」
 湘若が抱き寄せてももう姿を変えることはなかった。こうして二人はわりない仲となった。

 女がやって来てからというもの、湘若の暮らしは豊かになった。書斎の長持ちはどこから来るものか、常に金や絹でいっぱいであった。また、女は湘若以外の人間と会う時には一切口を利かなかった。
 女はもちろん人間ではなかったが、湘若のもとに来てからしばらくして身籠もった。十月十日経つと、女は産室の戸を閉め切って一人で出産した。立派な男の子であった。
 子供が生まれて六年経ったある日のことである。
「前世からの業(ごう)の償いをようやく果たせました。これでお暇(いとま)させていただきますわ」
 突然、女から別れを告げられて湘若は驚いた。驚きの余り声も出ないほどであった。やがて涙を流しながら女を抱き寄せて、
「何で急にお別れだなんて言い出すの?しかもそんなに平然と。君は僕たち父子を見捨てて行ってしまうつもりなの?僕はともかく、母を知らないままに育っていくあの子を不憫に思わないの?」
 とかき口説いた。これには女も胸を詰まらせて、涙を浮かべた。
「会者定離(えしゃじょうり)はこの世の常ですわ。坊やは福相の持ち主だし、あなたも百まで寿命がおありよ。これ以上何を望むの?どうしても私に会いたい時には、あたしの形見を抱いて『荷花(注:蓮の花のこと)三娘子!』と呼んで下さればいいのよ。きっと会えるわ」
 女はそう言うと、湘若の腕から逃れ出た。
「お別れです」
 女の体が風に乗ってふわりと浮き上がった。湘若はその後を追って飛び上がって手を伸ばしたが、履(くつ)を掴んだだけであった。履は脱げ落ちて石と化した。朱よりも赤く、水晶のように透き通っていた。湘若はそれを拾って大切に仕舞い込むために書斎の長持ちを開けた。金や絹はなくなっていたが、三娘子が初めて出会った時に着ていた薄絹の袖無しが残っていた。抱きしめて顔をうずめると微かに蓮の香がした。

 以来、湘若は三娘子を思い出すたびに、この袖無しを抱きしめて女の名を呼んだ。

「三娘子!」

 すると女が姿を現した。艶やかな笑みを浮かべた姿は共に暮らしていた時そのままであった。

「三娘子!」

 しかし、女は何も答えない。ただ笑っているだけだった。

(清『聊斎志異』)

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