霍小玉伝(四)
その年の十二月に、李益は婚礼のため長安に戻ってきた。しかし、このことは小玉には知らされなかった。
ある日、小玉のもとを一人の男が訪ねた。崔允明(さいいんめい)と言って李益の従弟にあたる男であった。以前はよく李益と一緒に遊びに来たもので、小玉とも親しくしていた。彼は李益から便りを受け取ると、必ずその消息を小玉に知らせていた。小玉の方も何くれとなく援助を惜しまなかったので、崔の方でも恩義を感じていた。しかし、李益の縁談話がまとまってから、小玉とも顔を合わせづらくなって疎遠になっていたのである。
しばらく待たされた後に現れた小玉の姿を見て崔はハッとした。崔の見知っていた小玉は粉黛(ふんたい)に彩られ、咲き誇る牡丹のように豊麗であった。それが、今ではすっかりやつれ、その肌は透き通るように冷ややかで、この世のものならぬ透明な美しさをたたえていた。
「崔様、お久しゅう。李様から何かお知らせでも?」
問われて崔はとまどった。その場しのぎに二言、三言、時候の挨拶をつぶやいた。小玉は溜め息をついてしみじみと言った。
「もう年越しですのね。李様に新しい着物を用意して差し上げなくては。崔様、お手数ですが、手紙を書きますので、李様にお渡ししていただけないでしょうか」
「いえ、いいえ、もうその必要はないのです」
堪らなくなった崔は全てをぶちまけた。李益の縁談がまとまり、婚礼のために長安に来ていることを話して聞かせた。小玉は始め怒りの余り言葉もなかったが、やがて絞り出すように叫んだ。
「この世の中でそんな事が許されてたまるものですか」
それから小玉は知人を介して何とか李益と連絡を取ろうとするのだが、李益の方は引け目があるので長安中を逃げ回っていた。小玉は日夜泣き暮らし、食事もとらず、ひたすら一目会うことだけを願った。その願いが昂じた余り、ついに二度と床を離れられない体になってしまった。
この頃になると小玉と李益の経緯を知る人も出てきて、風流を解する者は小玉に同情し、剛毅な者は李益の無情に憤りを隠さなかった。三月になり、春の遊楽の時期が巡ってきた。李益も五、六人の友人らと崇敬寺へ牡丹を見に出かけ、詩を吟じながら寺内を見物していた。友人の一人が李益に言った。
「うららかでいい季節になったな。見ろよ、この人出を。まるで、長安中の人が花見に来ているみたいだぜ。それに引き換え、小玉さんは一人で部屋で泣き暮らしているそうだ。ねえ、君は彼女を棄ててしまう気かい?ひどい奴だな。男ってのはそんなものじゃないだろう。なあ、少しは彼女のことも考えてやれよ」
その時突然、
「そこにおわすは李十郎殿ではござらぬか?」
と声を掛けられた。十郎は李益の呼び名である。振り返ると堂々たる体躯の美丈夫が立っていた。黄色の着物をまとい、後ろに髪を切り揃えた胡人の少年を従え、見た所お忍びで花見に来た貴人のようである。美丈夫は続けた。
「それがしは山東の出身で、皇室の外戚に連なるものでございます。あいにく文才には恵まれておりませぬが、賢者を慕う心は誰にも負けぬと自負しております。日頃、ご貴殿のご令名を承り、是非お会いしたいものだと思っておりました。今日幸い、お会いすることができ申した。拙宅はここから遠くありません。楽士もおります、美女もおります、駿馬もおりますぞ。お慰みにはなりましょう。さ、さ、どうぞ、是非お立ち寄り下され」
これを聞いた友人達も李益に是非行くように勧めた。そこで、美丈夫と共に馬に乗って出かけた。坊を幾つかと降り過ぎる内に、小玉の住む勝業坊にまで来てしまった。小玉と出くわすのでは、と不安になった李益は用事にかこつけて馬を返そうとした。美丈夫はその手綱をつかむと、
「拙宅はすぐそこでござる。ここまで来てそれがしをお見棄てになる気ですかな?」
と言って引きずるように連れて行った。その内、見覚えのある家が見えてきた。小玉の家である。李益は慌てた。美丈夫の手を振り切って馬を返そうとした。すると、美丈夫は従者に命じて李益を抱え上げさせると、小玉の家の中に放り込ませ、自分は外から門を閉ざして大声で呼ばわった。
「李十郎殿のお越しじゃ!」