業病(三)


 

 家の邸の壮大さは綺の想像をはるかに凌(しの)ぐものであった。気おくれした綺が案内を乞うてよいものかどうか迷っていると、門番が不機嫌な顔で棒を振りまわしながら近づいてきた。
「ほれ、あっちへ行った、行った」
 綺のことをてっきり乞食と思ったのである。そこで、綺が司空渾(しくうこん)に書いてもらった推薦状を差し出すと、門番は急に表情を改めて奥へ引っ込んだ。しばらくすると、中から美しく装った二人の少年が現れた。
「父の命により、お迎えに上がりました」
 二人は主人の息子のようである。綺は少年のあとに従い奥へと進んだのだが、樹木山石を巧みに配置した庭園に雄大で精緻(せいち)な殿宇は、いかにも名家の趣をたたえていた。しゃれた造作の廻廊をぐるりと回ったところが、母屋であった。
 上り口の石段の上に恰幅がよく、見事な髭を蓄えた壮年の男が立っていた。邱家の主人であった。主人は慌てて跪く綺の手を取って助け起こして客間へ導いた。綺を上座に坐らせた主人は早速、司空渾の近況を聞いていた。それから腰元に命じた。
「奥をここへ」
 しばらくして、四十がらみの上品な婦人が二人の腰元に支えられながら現れた。主人は夫人を綺に引き合わせた。
「家内でございます。若君は司空殿とご昵懇(じっこん)とのこと。なれば、我等とも浅からぬ縁にござる。そこで、家内にも目通りさせました次第です」
 綺は立ち上がって夫人に向かって丁重に挨拶した。夫人は綺をじっと見つめると、笑みを浮かべて言った。
「司空殿もお目が高い。美しい若様だこと」
 主人が手を打つと、腰元達が山海の珍味や酒を運んできた。主人は綺に酒を勧める合間に郷里についてたずねた。綺が一通り答えると、主人は言った。
「不躾ながら若君に申し上げたき儀がございます。実は私には娘が一人ございます。麗玉と申しまして、家内も私も可愛くてたまらないのです。そろそろ年頃なのですが、遠くに嫁がせるには忍びず、できればいつまでも手元に置いておきたいというのが本音です。そこで是非、よい婿がねをと思って探しておるのですが、なかなか見つかりません。まあ、文雅で瀟洒(しょうしゃ)な婿をなどというこちらの条件が厳しすぎたのかと、諦めていた矢先に若君のような方がうちをお訪ね下さった。これこそ、月下氷人のお導きとしか言いようがございません。こちらとしては、今すぐにでも娘と婚礼を上げていただきたいと思っておるのです。いかがなものでしょう?」
 綺は慌てて席を立ち、恭しい態度でこう言った。
「今の私は根無し草同然。お引き立ていただけるのは願ってもないことでございます。ただ、私がこちらに来た事情というのをご理解下さい。私が広東に参りましたのは行方知れずになっていた叔父を捜し求めてのことでございます。すでに捜し当て、私が郷里に連れ帰るのを待つだけでございます。ですから、お嬢様と一緒にさせていただいても、三、四日後にはひとまず郷里に戻らねばなりません。全てことが片付きましたら、またこちらに戻ってまいる所存です。このことだけはご了承下されますよう」
「まあ、慌てて戻られなくてもよいではございませんか」
 主人はこう夫人がとどめるのを制すると、いかにも感心したという風にうなずいた。
「お若いのに大したものだ。若君の孝心、御仏の慈悲に勝るとも劣りませぬぞ。よろしい、大事な婿殿の孝心を全うさせるためだ。郷里までの旅費を全て私がまかないましょう。五百金もあれば足りますかな」
 思いもよらぬこの展開に綺の方が驚いた。今まで乞食として辛酸をなめてきた綺は主人の好意に感激した。綺は涙を流しながら礼を述べた。
「早速、婚礼だ。仕度をせよ。めでたい、こんなめでたいことはないぞ」
 主人の声に応じてにぎにぎしい楽の音が聞こえ、着飾った腰元達が提灯(ちょうちん)を手に現れた。

 

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