霍小玉伝(二)


 

 擦れの音がしたかと思うと、早、かの人は目の前に立っていた。その姿は仙界に生える玉樹が人の姿となって下界に降り立ったかのように思われた。双眸は冴え冴えと澄み渡り、臆することなくまなざしを李益に注いでいた。小玉は母親の側に腰を下ろすと慎ましく目を伏せた。母の浄持が言った。
「お前が日頃口ずさんでいる『御簾上ぐれば、風が竹をそよがせて、疑うらくはこれ故人来たらん』あれはこの若様がお作りになった詩ですよ。一日中飽きることなく口ずさんでいたけど、実際に作者にお会いしたご感想は?」
 小玉は俯いたまま微笑んだ。
「お顔よりもご評判の方が大事ですわ。だって、才子に不格好な方がいらっしゃるはずありませんもの」
 李益はそう聞くと、立ち上がって何度もお辞儀をしながら、
「お嬢様は才能を愛され、私めは美貌を第一と思っております。双方揃えば、才貌双全と言うものです」
 などと言うので、母と娘は顔を見合わせて笑ってしまった。
 そして酒宴が始まった。杯が幾度か回った頃、李益は立ち上がり、小玉に歌を唱ってくれるよう頼んだ。小玉は初め恥ずかしがって承知しなかったが、母にも勧められてようやく唱い出した。その声は清らかで柔らかく、節回しも巧みであった。
 酒が尽き、日もとっぷり暮れた頃、鮑が李益を西側の一室に導いた。静かな庭に面した瀟洒(しょうしゃ)な寝室であった。腰元の桂子(けいし)と浣紗(かんしゃ)が李益の着物を脱がせると、鮑と共に立ち去った。部屋には李益一人が残された。
 ややあって小玉が姿を現した。その言葉は穏やかで、いくばくかの媚びを含んでいた。李益の目の前ではらりと薄絹の着物を落とした。
 ――ああ、玉人。
 李益は声にならない呟きをもらした。そう思わせるほど小玉の肌膚(きふ)は輝いていたのである。彼女の体からは芳華の開くような香りが漂っていた。小玉を抱き寄せた李益は雲に乗ったような心地であった。その夜の楽しみはこの世のあらゆる快楽に勝った。
 夜も更けた頃、小玉は涙を浮かべながら李益を見つめて言った。
「私は妓女です。あなたと身分が釣り合わないのは存じております。今はあなた様にこの容色をお気に召していただき、こうしてお情けを蒙(こうむ)りました。でも、容色はいつかは衰えるものです。その時にはお見捨てになられることでしょう。それを思うと悲しくなりますわ」
 この言葉を聞いた李益は胸を打たれ、抱き寄せながら静かに言った。
「日頃の願いがこうしてかなったんだ。この身が粉々になったって、君のことを見捨てるものか。そんなに心配なら、起請(きしょう)文を書いてもいいよ」
 小玉は涙を拭うと、腰元の櫻桃(おうとう)に帳を掲げて灯りを差し入れさせた。手ずから筆と硯を李益に渡したのだが、それは王家で使われているものと同じこしらえであった。見事な刺繍を施した袋の中から、越(えつ)の白絹三尺に黒い罫線を引いたものを取り出した。李益は筆を取るなり、サラサラと起請の言葉を書き始めた。普段から文才に富む彼である。文章はあふれるように流れ出てきた。思いつく限りの誓いの言葉を連ねた。山河、日月、この世のありとあらゆるものにかけて、その永遠の愛を誓った。
 起請文を読む小玉の目には再び涙が浮かんでいた。そして、螺鈿(らでん)細工の箱に大事に起請文を収めた。以来、二人は仲睦まじく、互いに相手がいなくては夜も日も明けなかったのである。

 瞬く間に二年が過ぎた。その春、李益は試験に合格し、鄭県(注:河南省)の主簿(注:書記官)に任命された。任命の知らせを聞いた小玉が言った。
「あなたの才能と名声を以ってすれば、降るような良縁があるはずですわ。ご両親もきっとそれを望んでいらっしゃるに違いありません。そうしたら、あの誓いは反故(ほご)になってしまいますわね。いいえ、誓いを守れなどとは申しません。だって、身分が違いますもの。それは私にもわかっております。ただ、一つだけ私のわがままを通していただきたいの。あなた、聞いて下さるかしら?」
 小玉の方から別れを匂わす言葉を告げられて李益は驚いた。
「何でそんなこと言うの?僕に何か落度でもあった?ねえ、言ってごらんよ。僕はその通りにするから」
「私は十八になったばかり、あなたもやっと二十二才です。あなたが一家を構えられる年齢まで、まだ八年ありますわ。私の一生の楽しみはこの時を限りにしたいんですの。奥様をお迎えになられるのはこの後にして頂きたいんです。そうしたら、私は髪を切って尼になります。あなたとの楽しい思い出を胸に余生を過ごすことに致しますわ」
 李益は女の心根に感動して涙を流した。そして小玉の手を握り締めて、
「天地日月に誓ったことはどうあってもやり通さなきゃ。僕は君と今生だけでなく来世をも誓ったつもりだよ。心配なんてしないで僕のことを信じて待っていておくれよ。そうだな、八月、八月になったら迎えの者を寄越すよ。すぐにまた会えるから待っていておくれ」
 と安心させるように言った。

 李益が任地へ出立したのはそれから数日後のことであった。

 

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