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重陽の約束(四)


 

 がじっと目を凝らしてみれば、巨卿その人であった。喜びのあまり転げるように駆け寄った。
「兄上、兄上、本当に来てくれたのですね。私は朝からずっとここでお待ちしておりました。兄上が約束を守るお方であることは、この劭が一番よく知っておりました。お約束通り、心ばかりのもてなしも用意しております。遠路はるばるお疲れでしょう。さあさあ、中へお入り下さい。母ともお会わせいたしましょう」
 巨卿はただうなずくだけで何も言わず、草堂に入った。劭は用意した席を勧めた。
「兄上のお席を母の隣に用意いたしました」
 劭は嬉しくて嬉しくて、一人で喋(しゃべ)り続けた。
「兄上は遠路、お疲れでしょう。母とは後で会うとして、まずは一献傾けて渇きを癒して下さいませ」
 巨卿は立ったまま何も言わず、ただ袂(たもと)で顔を覆った。巨卿の姿は灯火の下でも暗い影のように見えたが、劭はそれを薄暗い灯りのせいだと思った。
 劭は甲斐甲斐(かいがい)しく厨房から料理と酒を運び、巨卿の前に並べた。
「粗末な酒肴(しゅこう)ではありますが、これはこの劭の心です。どうぞ、口だけでもおつけ下さい」
 しかし、巨卿は手を料理の上にかざすだけで、まったく口をつけようとしない。劭はいぶかしく思った。
「もしや、兄上、母や弟がご挨拶に上がらないのをとがめて口をおつけにならないのですか?ならば、母を起こしてまいりましょう」
 巨卿は無言で悲しげにため息をついた。
「弟の勤も呼んでまいります」
 巨卿は手を振った。劭は泣きそうになりながらも、身を乗り出して勧めた。
「兄上、料理はいかがです?酒はいかがです?」
 巨卿は眉をひそめ、避けるような仕草をした。
「こんな粗末な料理、兄上をおもてなしするのに足らないのは重々承知です。しかし、この劭にできる精一杯のもてなしなのです。どうかむげにお退けにならないで下さい」
 巨卿は苦しそうに息をついていたが、手で劭をさえぎるようなそぶりを見せた。
「弟よ、少し離れてくれ。話したいことがあるから」
 劭が少しばかり下がると、巨卿は言った。
「弟の真心こめたもてなしを、どうしてこの兄、しりぞけることができるだろう。しかし、それも生きていてこそのことだ。弟よ、君には事実を告げなければならない。私はもうこの世の人間ではないのだ。今の私は魂が仮の姿を現しているだけなのだ」
「一体、どういうことなのです!?」
「山陽に戻った私は妻子を養うために再び商いに手を染めるようになった。浮世の煩わしさにかまけているうちに、不覚にも一年が過ぎていた。約束を忘れていたわけではないのだ。しかし、目先のわずかな利益のために、季節を気にかける余裕をなくしていた。今朝、隣家から茱萸(かわはじかみ)を浮かべた酒を贈られてはじめて、今日が重陽の佳節だということに思い至った。約束をどうしようか、とひたすら思い煩ったが、山陽からここまでは千里の道のりに隔てられている。とうてい一日で行くことはできない。しかし、この約束を破ったならば、弟よ、君は私のことをどう思うだろう?どんなに考えても一日に千里を行く方法は見つからなかった。その時、古の人の言葉を思い出した。古の人が人は一日に千里を行くことはできないが、魂は一日に千里を行く、と言っていたことを。妻子を呼んでこう言い聞かせた。私が死んでもすぐに埋葬せず、弟の張元伯が来るまで待つように、と。そして自ら首をはね、魂となって陰風に乗ってここまで来たのだ。弟よ、愚かな兄を哀れんでおくれ、その軽率さを許しておくれ。命をかけて約束を全うしたことに免じて、どうか山陽まで私の屍を見送りに来てやっておくれ。そうしてくれれば、死んでも悔いがないというものだ」
 語り終わると、巨卿はとめどなく涙を流した。劭も泣いた。
 やがて、巨卿は袂を払って立ち上り、草堂の階(きざはし)を下りていった。劭は慌ててその後を追ったが、階に足を取られて転げ落ちた。さっと陰風が吹きつけたかと思うと、すでに巨卿の姿は消えていた。

 

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